戯言遣いとの関係と言いながら、戯言遣いはほとんどと言っていいほど登場しない上に、零崎人識と会話を交わしている描写は1つもなかった。挙句の果てに、無関係。
西尾維新らしいと言えば西尾維新らしいのかなぁ。
しかし、戯言遣いが零崎人識といかに似ているのかと同時に、いかに世間ずれしているのかがよく分かった。
以下、どうでも良い覚書。
「彼らは最弱と言っていいほどに弱く、逸脱せず、成長せず、変化せず、仮に逸脱し、たとえ成長し、いやしくも変化したところで、そんなものはすぐに元に戻り、反省も後悔もその場しのぎで、とても簡単に徒党を組み、そうかと思うと簡単に裏切り、何が起きても何事もなかったことにし、すぐに忘れ、とっさに意見を翻し、信条を持たず、怯えては逃げ、狂い、非常に適当で、約束を守らず、ルールを無視し、高いばかりのプライドを簡単に捨て、努力もなしで成果を求める、欲深の、しかし慈悲深い、善良でありながら悪逆で、感情移入とそれに伴う飽きを矛盾なく実現する、深く考え過ぎる割には何も考えておらず、行動力がない割には結果だけは出す、感情的な癖に中途半端に頭のいい、愛すべき群体としての個体。
ありったけの敬意となけなしの軽蔑を込めて――人は彼らを『一般人』と呼ぶ。」
一般人についての考察としては、取り上げる価値がないかも知れないけれど、でも、非常に面白い考察であることは間違いない。
「変わりたいと思う気持ちは、自殺だよね」
きつい言葉だなぁと思う。
「人間が人間を変えたり出来るかよ。」
同感だ。
人は、変わろうとするから変わるのであって、強制的に変えさせられるなんてことはありえない。
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